17帖 19440625日 第十七帖 (一七)
この世はみな神のものざから臣民のものと云ふもの一つもないぞ、お土からとれた物、みな先づ神に供へよ、それを頂いて身魂を養ふ様になってゐるのに、神には献げずに、臣民ばかり喰べるから、いくら喰べても身魂ふとらぬのぞ、何でも神に供へてから喰べると身魂ふとるぞ。今の半分で足りるぞ、それが臣民の頂き方ぞ。六月の二十五日、ひつくのか三。
→食べ物について書いた、初めての帖ですね。
農作物は取れた状態では神気はそれほど入っていない為、「一度神様に捧げてから」いただくことで、神気をいただくことで魂が潤い、作物をいただくことで肉体が潤う、という状態です。
この世のありとあらゆるものは全て神様の持ち物であり(そもそも地球自体が国常立大神様のお体なわけで)、農作物も例外ではないわけです。が、チリ一つ動かすのに神様の許可をいちいち取るというのも面倒な話で、そのへんの事は「勝手に判断してやりなよ」とも書かれています。
18帖 19440626月 第十八帖 (一八)
岩戸開く役と岩戸しめる役とあるぞ。一旦世界は言ふに言はれんことが出来るぞ、シッカリ身魂みがいて置いて呉れよ、身魂みがき第一ぞ。この道開けて来ると、世の中のえらい人が出て来るから、どんなえらい人でも分らん神の道ざから、よくこの神示読んで置いて何んな事でも教へてやれよ、何でも分らんこと無いやうに、この神示で知らして置くから、この神示よく読めと申すのぞ。
→「一旦世界には~」の下りはこれから起きる世界的な危機だと推測します。コロナウイルスの事かもしれませんし、今後起きる地球規模での大震災・津波、そして第三次世界大戦なのかもしれません。
神示を十分に読んでいれば、先が少しずつ見通せるようになってきます。霊的に磨かれてくると直感力が非常に鋭くなっていきますし、明彩夢で未来に起こることを予知夢として見せられることもあります。
この道はスメラが道ざ、すめるみ民の道ぞ。みそぎせよ、はらひせよ、臣民 早くせねば間に合はんぞ。岩戸開くまでに、まだ一苦労あるぞ、この世はまだまだ悪くなるから、神も仏もこの世には居らぬのざといふところまで、とことんまで落ちて行くぞ。九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ。臣民の心の鏡凹(くぼ)んでゐるから、よきことわるく映り、わるきことよく映るぞ。今の上に立つ人、一つも真の善い事致しては居らん、これで世が治まると思ふてか、あまりと申せばあまりぞ。神は今まで見て見んふりしてゐたが、これからは厳しくどしどしと神の道に照らして神の世に致すぞ、その積りでゐて呉れよ。神の申すこと、ちっともちがはんぞ。今の世に落ちてゐる臣民、高い所へ土持ちばかり、それで苦しんでゐるのざ。早う身魂洗濯せよ、何事もハッキリと映るぞ。六月二十六日、ひつくのかみ。
→「スメラ」というのは天皇の称号が使われる前の日本の君主につけられていた称号ですね。
「 この道はスメラが道ざ、すめるみ民の道ぞ 」というのは神武天皇以前の神様の道だぞ、という意味になりますね。
神武天皇が紀元前660年頃なので、 この記事を書いている2021年は皇紀:2681年です。日月神示には「三千年の昔に返すぞ」という記載からも、神武天皇以前の体制に戻すぞ、ということのようですね。
→ 「九月に気をつけよ、九月が大切の時ぞ 」はフィリピンのマニラ空襲でしょうか。
日本の敗北が決定的になるレイテ島上陸作戦前の大規模な空襲。
レイテ島の戦いでは人肉を食べなければならないほどまでに追い詰められた日本兵。まさに「 神も仏もこの世には居らぬのざ 」という地獄の光景が、繰り広げられた。
19帖 19440627火 第十九帖 (一九)
神の国 神の山に 神祭りて呉れよ、祭るとは神にまつらふことぞ、土にまつらふことぞ、人にまつらふことぞ、祭り祭りて嬉し嬉しの世となるのぞ、祭るには先づ掃除せねばならんぞ、掃除すれば誰にでも神かかるやうに、日本の臣民なりて居るぞ、神州清潔の民とは掃除してキレイになった臣民のことぞ。六月二十七日、一二ʘ 。
→神示に出てくる「お山」とは富士山を模した鳩森八幡神社の富士塚(岡本天明伝 P160)
→天之日津久神の神霊を富士山から三十里の距離のところに祀れと示された。群馬県の榛名山に祀る事に決めた(岡本天明伝 P162)
というように岡本天明氏とその御一行は日本の山々に神を祀っていく。
20帖 19440627火 第二十帖 (二〇)
神がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者 沢山あるが、神には人のいふ善も悪もないものぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まれば分らんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。
→「理屈は悪だ」と日月神示では厳しく戒めています。頭の良い人間が、様々な機械を作り、政治をつくり、弱い立場の人間を支配していくような現在の社会構造は、愛と善の神様のやり方とは全く逆の、我よし、力よしのやり方なわけです。
そのようなやり方を続け、結局は様々な科学技術を使って殺し合い、滅亡していく・・・そのような光景を、元の神々様は見てこられたのでしょう。
今現在の我々の世界というのは7回目で、過去6回滅びているわけですね。かつての文明も現在と同じ様に機械や通信技術などの様々なテクノロジーがあったが、そのテクノロジーを使って各文明が戦いあい、結局滅亡へと向かっていった・・・という感じのようです。
→今現在私達が新しいことと思っているようなテクノロジーは、過去にかつてあった超古代文明でも同じようなことがあったようです。が、それは我ら人類が滅びへ向かう道であり、元の神々様のやり方に逆らう悪の眷属たちの「常套手段」であったということのようです。
理屈で弱い立場の人間を押し込めるようなやり方は、結局は破滅をもたらしてしまうので、「理屈は悪ざぞ」と日月の神様は書いている訳ですね。
言挙げせぬ国とはその事ぞ、理屈は外国のやり方、神の臣民言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。六月二十七日、ひつくのか三。
→「 言挙げせぬ」というのは自然とそうなっていくと思います。私は18歳の頃に日月神示を初めて読み、その道を貫こうと思った時、自然と言葉が話せなくなっていきました。
「口・心・行」を揃えようと思った時、思ったことを安易に口に出してしまうと、それを実行しなければならなくなります。すると簡単に話すことができなくなるんですね。
それで私は失語症のようになってしまった時期がありました。
→「 足許から鳥が立つ」とはことわざの一種ですね。
ここでは「十理(とり)」と当て字になっていますね。
日月神示では「◯一二三四五六七八九十」で「◯九十=マコト=誠」という書き方をします。
今回の私達の世界は八方位の平面世界に例えており、九十という縦軸を登って新しい段階に入るとされています。故に「十理(とり)」たちてというのは、今まで当たり前であった平面的な世界観が、突如として立体の段階に入る(今まであり得なかった状態になる)という意味で「十理たちて」という当て字を使ったのではないかと思います。
→「上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ 」について。
今の世の中では人を利用したり蔑んだり、騙したりしている人間たちが社会の上層部に居座っている形でですね。かれらはお金を持っていることをいいことに、弱い立場の人たちを奴隷のように扱い、肉食をし、動植物を殺し、やりたい三昧しているわけです。
がこの度の一厘の仕組みにより、現実界の自分と、幽界にいる自分とが出会うような出来事が生じるようです。今までは影で「アイツを利用してやろう」とか考えていたことが、他人から見ると筒抜けになってしまうような状態ですね。
結果、他の誰から見てもその人の霊性が磨かれているかどうかというのがはっきりと分かってしまうため、今まで悪事を働いてきた人たちはどす黒い自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、自ずと弥勒の世では消えていくか、ひと目のつかない場所でヒッソリと隠れるように生きることになるようです。
ここで知っておかなければならないのが、日本人なら誰でも知っている「カゴメ歌」ですね。
籠目:۞(適当なマークがなかったですが△▽が組み合わさった六芒星 亀マーク)=ユダヤ
カゴの中の鳥:十理=一厘の仕組みは
いついつでやる:いつ発動するの?
夜明けの晩:この度の大峠
鶴と亀がすべった:スメラ(シュメール血族)とユダヤ(本当のユダヤ)が統べった
うしろのしょうめん だあれ:うしろの正面=自分=本当の自分との出会い
要するに、「一厘の仕組はいつ発動するんだろう?大峠の時にユダヤとスメラが出会ってユダヤ十二部族の秘密が世界的に明かされるのは分かっているのに。その時、私達は本当の自分に出会えるのになぁ」といった意味だと、筆者は考えています。
21帖 19440628水 第二十一帖 (二一)
世の元の大神(かみ)の仕組といふものは、神々にも分らん仕組であるぞ、この仕組 分りてはならず分らねばならず、なかなかに六ヶ敷い仕組であるぞ、知らしてやりたいなれど、知らしてならん仕組ぞ。外国がいくら攻めて来るとも、世界の神々がいくら寄せて来るとも、ぎりぎりになりたら神の元の神の神力出して岩戸開いて一つの王で治める神のまことの世に致すのであるから、神は心配ないなれど、ついて来れる臣民少ないから、早う掃除して呉れと申すのぞ、掃除すれば何事も、ハッキリと映りて楽なことになるから、早う神の申すやうして呉れよ。今度はとことはに変らぬ世に致すのざから、世の元の大神でないと分らん仕組ざ。洗濯できた臣民から手柄立てさしてうれしうれしの世に致すから、神が臣民にお礼申すから、一切ごもく捨てて、早う神の申すこと聞いて呉れよ。因縁の身魂は何うしても改心せねばならんのざから、早う改心せよ、おそい改心なかなか六ヶ敷ぞ。
→「六ヶ敷い」=むつかしい=難しい
日月神示の言い回しってかなり昔の日本語の言い回しですよね。
神は帳面につける様に何事も見通しざから、神の帳面間違ひないから、神の申す通りに、分らんことも神の申す通りに従ひて呉れよ。初めつらいなれど だんだん分りて来るから、よく言うこと聞いて呉れよ、外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てるから、臣民の心も同じぞ、江戸も昔のやうになるぞ、神の身体から息出来ぬ様にしてゐるが、今に元のままにせなならんことになるぞ。富士から三十里四里離れた所へ祀りて呉れよ、富士にも祀りて呉れよ、富士はいよいよ動くから、それが済むまでは三十里離れた所へ、仮に祀りて置いて呉れよ。富士は神の山ざ、いつ火を噴くか分らんぞ、神は噴かん積りでも、いよいよとなれば噴かなならんことがあるから、それまでは離れた所へ祀りて呉れよ、神はかまはねど、臣民の肉体大切なから、肉体もなくてはならんから、さうして祀りて呉れ。まつりまつり結構。六月の二十八日、ひつ九のか三。
→筆者は「質量保存の法則」という物理法則にならい、「徳量保存の法則」というものの存在を確信しています。「神は帳面につける様に」とあるように、天界には私達が行った事のログを取るなんらかのシステムが有るようです。オカルト界隈でいうアカシックレコードという奴もあるようで、過去に起きた様々な出来事もこのレコードに記載してあるのでしょう。
→「 外国から攻めて来て日本の国丸つぶれといふところで、元の神の神力出して世を建てる 」とはっきりと「外国から攻めてくる」と書いてありますね。一厘の仕組が発動するタイミングが、まさしく外国による侵略で日本が潰れる寸前という事になります。
→「 富士はいよいよ動く 」の下りは神示の随所にあります。ここでいう富士とは富士山の事を意味するだけでなく、日本各地の地方富士も含む、という考え方もあります。が筆者としては「富士=二二」という当て字が随所に出てくる点に注目します。
再びこの図なわけですが、一二三四五六七八九十の合計10つの数字に、それぞれの山と谷の間の0と0の2文字が合わさって22文字。◯は2つで∞となる(富士と鳴門の仕組)を表しているのが「富士(二二)はいよいよ動く」という意味かと捉えています。
要するに”現実界と神界との間の扉(岩戸)が開く=富士が動く”という意味で、その象徴として富士山噴火が起きる=富士が動くまではなんとしても耐えろ、というメッセージだと思います。
おそらくは今後、中国の台湾侵攻(台湾は日本の一部)を皮切りに、神示に書いてあるような凄惨な出来事が起き、日本人が滅亡の危機へと瀕する状態へと突入する段階が来ます。その時に「もう駄目だ」と諦めるのではなく、泥水をすすってでも生きて富士が動くまで耐えろ、というメッセージなんですね。
22帖 19440628水 第二十二帖 (二二)
いよいよとなれば、外国強いと見れば、外国へつく臣民 沢山できるぞ。そんな臣民一人もいらぬ、早うまことの者ばかりで神の国を堅めて呉れよ。六月二十の八日、一二のか三。
→この神示が降ろされたのが1944年6月。日本の兵隊さんが命をかけて国のため、残してきた家族のため、故郷から遠く離れた地で地獄のような戦いを繰り広げている中。そんな状況で「外国へつく臣民が沢山できる」わけがなかったのは、沖縄戦で自害し果てた沢山の日本人を見ればわかるでしょう。
そう、この示しは現代の私達へのメッセージだと、私は捉えています。
残念ですが、今の日本人を見ていると、外国軍が日本侵攻を開始した時点で日本から脱出する人が続出するでしょう。神示にあることを信じて日本に最後まで残ろうという人は殆ど居ない状態になるのは、もはや誰の目から見ても明らかですね。
南は中国から台湾、沖縄と侵攻を受け、北はロシア、東はアメリカ、そしてヨーロッパの艦隊が押し寄せ、日本の国は丸つぶれの膾(なます)のごとき分割統治・・・日本人がどうなるかはウィグルを見ていれば分かる通りです。
そんな中、今の便利な生活を捨てて日本国内で逃げ隠れる覚悟のある人が、果たしてどれだけいるか。けれども日本を捨てていった人たちは、もう二度と日本には戻れないと神示にはあります。
→残念ながらこの度の大峠を日本で過ごせなかった場合、外国行きになり二度と日本の土を踏むことは許されないようです。弥勒の世の日本は、この世に訪れた楽園だというのは、神示を読めばわかると思います。
ならば最後まで日本に残り、日本で死んで復活の日にかけた方がよほどマシと言えるでしょう。
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