断捨離。
無駄なものを買うことを「断つ」
不要なものを「捨てる」
持っているものを「離す」
という意味で、要するに身の回りの整理をして、すっきりしちゃおう的な発想ですね。
日月神示では「物を沢山持っている人」より「物持たない人」の方が良くなるという記述があります。
断捨離の「断」
高級品
ひふみ神示 第01巻 上つ巻 第二十五帖 (二五) 欲張っていろいろ買溜めしてゐる人、気の毒が出来るぞ、神よく気をつけて置くぞ
日月神示では質実剛健な生き方を推奨しています。なのでブランド物や高級品・高級車といった、機能に対して価格が釣り合っていないようなものを「欲張った買い物」として、厳しく戒めています。
アラブの石油王のように、無駄に高い車を多数所有しているようなのは論外ですね。
必要なものを、必要なだけ買い揃える事。きらびやかな宝石や高級車、ブランド品は確かに魅力的ではありますが、そういったものの下でどれだけの物が犠牲になっているかをよく考えなければなりません。
一粒の宝石を掘り出すのに山一つを削ったり、きれいなコートを作るのに動物を殺して皮を剥いだり・・。確かにその行為をしたのは生産現場で僅かな賃金を得るために働く労働者ですが、お金を出したのはあなたです。あなたの責任となるのです。
悪の行為に加担した分、生産現場で自ら動物を殺している人たちより、罪が重くなるでしょう。
高性能品
反面、機能面が優れた道具に対しての戒めはないので、ご安心を。「これすごく性能が良くて役立つの間違いないけど、高いから欲になるかなぁ」なんてのはあまり気にする事はないんです。その機能を使って、世の中の為に貢献すればいいのですから。
特に終わりの日には、僅かな荷物を持って逃げ回ることが考えられます。多くのものを背負って逃げることはできないのです。それならば、最高品質で多機能で、軽量小型のものを、揃えておくべきでしょう。具体的には登山用品です。
食べ物
ひふみ神示 第14巻 風の巻 第十一帖 (三六二) 日本の国に食物なくなってしまふぞ。世界中に食べ物なくなってしまふぞ。何も人民の心からぞ。食物無くなっても食物あるぞ、神の臣民、人民 心配ないぞ、とも食ひならんのざぞ。心得よ。二月十六日、ひつ九のか三。
また食べ物の備蓄に関しても、この「欲張った買い物」とは違います。日月神示には繰り返し「食べ物がなくなるぞ」という警告がされています。なので、食料備蓄品はきちんと準備しておくべきなのです。
もしも食べ物がなくなったとき、あなたの魂と肉体の掃除がまだ済んでいなかった場合、人から奪ってでも食べ物を得ようとする事になります。故に「いざというときの改心は間に合わん」のです。
自分が悪側にまわらないためにも、最低限の備蓄はする。そしてその備蓄品を消費しながら、時には人に与えながら、自分自身の身魂を磨いていくんです。
ひふみ神示 第13巻 雨の巻 第十二帖 (三四六) 食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様では、それは神力無いのぞ
長期保存できる食べ物をキチンと購入し、備えておくことが大切だとしています。
不用品を処分したら、そのスペースを食べ物備蓄のために使いましょう。
おすすめは、パスタ・お米・餅・缶詰などですね。
断捨離の「捨」
ひふみ神示 第02巻 下つ 第十八帖 (九八) 物持たぬ人、物持てる人より強くなるぞ
そもそもその人の周りにあるものというのは、その人自身を表すわけです。波長の法則からすれば、自身の魂の波長が、自分の身の回りに現れてくるからです。
部屋が汚れているというのは、それだけ自分の心が汚れている=掃除が終わっていない ということを意味するわけです。
不要なものは捨てましょう
断捨離の「離」
ひふみ神示 第09巻 キの巻 第七帖 (二六四)物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか。
不用品を捨てるときは、よく考えて。
物は神様そのもの。単純に「あー、これ使わなくなったから捨てるわ」じゃなく、必要な人がいるならその人に与えること。
自分が使っているものでも、他人が困っていたらそれを与える。損得じゃなしに、人にどんどん与えていく事。
ひふみ神示 補巻 月光の巻 第五十六帖 そなたは他にものを与えることに心せねばならんぞ。与えることは頂くことになるのであるから、与えさしてもらう感謝の心がなければならんぞ。
神様の政治は、「与える政治」。この道に従事する人は、人に与えていく事を率先的に行う必要がありますね。
与えるという「型」を私達が行うことで、それは日本に、世界にと広がっていく訳です。
ひふみ神示 補巻 月光の巻 第十五帖 与えることは頂くことぢゃと申しても、度をすぎてはならん。過ぎると、過ぎるものが生れて、生んだそなたに迫って来るぞ。
ただし、人に物を与えすぎるのはNG。なぜなら、「与えられること」が当たり前になってしまっては、その人の魂の成長が阻害されるからです。あくまで道は自分で開くもの。その人が与えら得ることに慣れきってしまえば、その人の成長が止まってしまう訳です。
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